|
|||
情報募集中
byふきさん To-sia7
2005/9/30(金) 0:50 「野柳」の風景
一度行きましたが、ここの奇岩は自然の芸術です。いろいろな形が見れて、全然あきませんでした。時間に余裕があったら、A Bengさんにもぜひお薦めしたいです。
By たんげさん To-sia7
2005/10/6(木) 22:42 朝馬と逢甲
台中市街図の話が出てきたついでで、朝馬と逢甲の位置なのですが、市街図の左上に見えるそごうからさらに駅からと同じくらい左上(北西)に行ったところが朝馬、そこから右上(北東)に2kmぐらい行ったところが逢甲です。高速バスで移動すると、朝馬という地名は行き先や経由地の表示でよく見かけるのに、日本製のガイドブックにはそこまで出ているのがなくて、どこにあるのかずっとわからずにいました。
By たんげさん To-sia7
2005/10/8(土) 23:51 彰化の扇形機関庫
彰化に扇形機関庫が残っているそうです。1995年に台鉄管理局が保存を決定、2001年に彰化県が史跡に指定、今年4月に改修工事が完了して、鉄道文物館が開設されて、無料で参観できるそうです。当然、見に行くでしょうから、リポート楽しみにしています。
2007/12/17 「台湾の声」【観光ガイド】より転載
新幹線で気楽に行く台中 日本人必見のスポット 李清興
新幹線の開通で、台北から台中まで一時間以内で気楽に行けるようになった。そこで台中の市内や近郊にある、ガイドブックもあまり触れないようなスポットを紹介してみたい。じつはこれらは、昨年、日本李登輝友の会福島県支部の方々が訪台した際、日本人の「足跡」を訪ねてみたいというリクエストに応えて周った場所なのだ。どこへ行っても、国府の反日教育を施された当時の私なら、けっして想像も及ばなかった台湾と日本との深い歴史関係を感じさせてくれた。一緒に歩いた日本の方々も同じ思いだったそうで、さらに台湾への親近感が増したといっていた。そういう意味で、これらを日本人必見のスポットとしてお薦めしたい。
■台中放送局
台中市内のFM放送局「大千電台」の建物は「台中放送局」とも呼ばれる。「放送局」と言えば日本語だ(台湾では「電台」)。それでもこの名称が用いられるのは、それが日本時代の「史跡」だからだ。日本で東京放送(NHKの前身)が開局し、ラジオ放送が始まったのは1925年(大正14年)3月だが、当時近代化建設が急ピッチで進んでいた台湾でも、早くもこの年6月、台湾総督府が「始政30周年記念展覧会」の会場で試験放送を行っている。そして28年(昭和3年)に台北放送局が開局して試験放送を始めた。31年に本放送が始まり、台湾放送協会も設立。台湾人女性アナウンサーが採用され、台湾語放送も開始した。32年に台南放送局が開局、聴取者募集キャンペーンも行われ、ラジオの普及に拍車をかけた。そうした中、35年5月に開局したのが台中放送局である。
戦後、台中放送局は国府の中央広播電台(中央放送局)に接収され、同電台の「台中電台」となった。98年、台中電台の移転に伴い、放送局の土地は台中市に返還され、建物も市の事務所となったのだが、翌99年の台湾大地震で大きく損壊した。そこで市は修復作業を進める一方、建物の「古さ」「文化史的意義」「地域的色彩」「希少性」「建築史的意義」に注目し、2002年7月、「台中市歴史建築」として保存することを決めた。04年8月には修復作業を終了した。
その後、「台中放送局」の経営管理を大千電台に委託した。そこで同電台は放送事業を行うとともに、建物を一般に公開し、市民が台湾の近代化の歴史に触れる場としているのだ。建物はゴシックとバロックの両様式を兼ね備えた立派な洋風建築だ。おそらく戦前では豪華に見えたことだろう。中庭には台中神社にあった石灯籠が置かれ、日本的情緒を醸し出している。また戦時中の防空壕も残っており、かつての歴史を伝えている。
私たちが見学に行った時には、大千電台の若い女性職員がガイドをしてくれた。展示室には建物の修復工事の際に屋根裏で見つかったと言う大きな上棟札も展示されていたが、台湾人の彼女にはそれが何だかわからなかったらしく、逆に日本人に説明を求めていた。熱心に日本時代の文物を理解しようとする姿が印象的だった。なお日本の方々は大千電台に歓迎され、見学後はラジオに出演し、市民に友好のメッセージを送っていた。
ここへ行くと、近代台湾の生い立ちを知ろう、歴史を伝えようと言う台湾人の気持ちが伝わってくるかも知れない。
■台中公園
1895年に台湾を領有した日本が、島内中部の中心地として建設した近代的市街地が台中市だが、市街地建設が始まった1903年、土地の有力者による建議と寄付、募金により、公園緑地として開設されたのが台中公園である。この公園が一躍脚光を浴びたのは1908年、ここで台湾縦貫鉄道全線開通式典が盛大に行なわれた時だ。何しろ台湾総督府にとって、この鉄道の完成は一大盛事である。日本からは閑院宮載仁親王も参列されることになり、公園の再整備が進められた。園内の池の真ん中には鉄道開通を記念する「池亭」と言う和洋混合の建物が建てられた。これが現在の「湖心亭」である。式典当日は閑院宮がここで休憩をされた。このようにしてそれが台中市のシンボルとなり、島内でも有名な観光名所となった。戦後、国府は「日本精神の遺毒を除去する」との政策で、地名から公共施設名に至るまで、中国の地名や人物名などに変えた。そして台中公園も例に漏れず、「孫中山(孫文)」の名に由来した「中山公園」となった。児玉源太郎総督の銅像は孫文像に置き換えられ、後藤新平民政長官の像も孔子像に代わった。旧来の歴史や文化を根こそぎにしようとする、おそるべき政治の「破壊工作」である。それでも市民は「台中公園」の愛称で呼び続けた。私も軍隊時代は台中付近にいたが、休日はよくここで羽を伸ばしたものだ。民主化以降、台湾では日本時代の見直しが始まり、当時の建築物を史跡保存する動きも活発化した。そうした中で99年、湖心亭もに市から史跡に指定された。
さらに市は2000年、「台中公園」の名称を復活させた。市民の間で「正名運動」が行われたからだ。開園100周年にあたる03年には、この公園の歴史に脚光を当てた。戦前台湾に住んでいた日本人に対し、当時の公園の写真の募集も行なった。現在園内には古い写真が飾られているが、もしかしたらそれがそうかも知れない。
また園内には、日本の「親王」が植えたと解説される木があった。鉄道開通式典で閑院宮が記念樹をお手植えになったとの記録があるから、たぶんそれだろう。国府による伐採を免れたことは幸運だった。
「日本精神の遺毒」など、台湾人にはどうでもいいことだ。戦後の「中国政治文化の遺毒」を除去して、この公園の歴史を愛するのが台湾人なのだ。
公園ではよく、地元の高齢者たちが集い、日本の流行歌を楽しそうに歌っている。彼らレパートリーの広さには、日本人も舌を巻く。私たちがそこへ行った時も、やはり湖心亭で大勢の人が歌っていた。一行が感激し、池を隔てて手を振ると、彼らも大喜びで手を振り返した。日本時代の名残を求めて園内を案内したのだが、地元の人々が立派なお膳立てをしてくれていたわけだ。
■宝覚禅寺
宝覚禅寺と言えば巨大な弥勒大仏が有名な台中市内の寺院だが、日本人との深いつながりについては、あまり知られていない。台湾で日本人と結婚した野沢(日本名)と言う中国人が戦後10数年もかけ、島内で引き取り手のない日本人約2万人もの遺骨を収集し、当時はまだあった日本大使館の支援を受けながら北部地区(台北)、中部地区(台中)、南部地区(高雄)の三ヶ所に遺骨安置所を建てて納骨した。その中部地区の安置所(1万4千人の遺骨を収納)があるのがこの宝覚禅寺なのだ。数年前には北部地区の安置所も、現地の区画整理のためここへ移転し、あわせて供養を受けている。また友愛鐘楼と書かれた建物があり、そこに架かる高さ160センチの「友愛永伝の鐘」は、戦前台湾で生活していた日本人1200人が、日台の親善を願って1971年に寄進したものだ。そしてもうひとつが、和平英魂観音亭である。
戦時中は台湾人も約20万人が日本国民として従軍して戦い、そのうち約3万3千人が亡くなり、約2万8千人が靖国神社で祀られている。だが戦後は、戦没者を慰霊する場所もなければ、慰霊すること自体許されなかった。なぜなら国府から見れば、日本のために戦った台湾人は敵だったからだ。李登輝総統の民主化の時代になると、従軍経験者たちは戦友会である中日南星会と中日海交会を結成し、日本の戦友会の協力を受けながら台湾人戦没者の慰霊事業に取り組んだ。そしてその結果、90年に建てられたのがこの観音亭である。その前方には「霊安故郷」と書かれた大きな石の慰霊碑も建てられた。揮毫したのは李登輝総統で、本人も日本の陸軍少尉だった。先日の日本訪問の時には、靖国神社にも参拝している。この観音亭が建立されて以来、日本からも戦友会などがそこで慰霊祭を行うようになった。最近では若い日本人の参拝も増えている。その日も一行は日本のために亡くなった台湾人のために黙祷を捧げていた。そのうち一人から聞いたのだが、台湾人が日本のために戦ったことを知ると、台湾人をとても身近に感じるらしい。そしてそうした感謝の気持ちと、当時を誇りに思う台湾人の気持ちが、両国交流を大きく支えてきたのだと言う。たしかにそう言うこともあるのだろう。その意味ではこの観音亭は、台湾と日本の歴史的に深い絆を考えさせてくれる場所であると思う。
■埔里酒廠
日月潭に近い埔里と言う街は紹興酒の産地だが、そこにある「埔里酒廠(酒造工場)」は人気の観光スポットだ。酒や食品など各種産品が販売されている他、「酒文物館」と言うお酒の博物館があるからだ。埔里の酒工場の歴史は日本時代の1917年に始まる。当初は「埔里製酒株式会社」と言う台湾人企業だったが、その後台湾総督府専売局の経営となり、現地の良質な水で清酒などを作っていた。戦後に国府に接収された後は「台湾省公売(専売)局」に属し、糯米酒、米酒、清酒などを作っていたが、その後は主に、中国浙江省紹興と同じ紹興酒の生産をするようになった。酒文物館は、紹興酒の生産工程を解説する他、こうした歴史も説明する。酒の歴史紹介を通じ、日本時代や戦後の庶民生活の懐かしさを感じさせるような展示である。ここで作られる紹興酒の味が、しばしば本場紹興のものより美味しいと言われるのは、やはり埔里の水のおかげでもある。面白いのは「紹興酒を埔里酒と改めるべきだ」との意見が、台湾人からも日本人からもよく聞かれることだ。ここの売店で売られる紹興香腸(紹興酒で焼いた腸詰)は、私の周辺では大評判だ。
以上のような場所を二日かけて周ったわけだが、このような場所は台中の辺りにはまだまだたくさんあるようだ。こうした歴史探訪は日本人だけではなく台湾人にも薦めたい。それは我々の先人の歴史を知ることにもなるからだ。そしてそのようにして両国の相互理解が深まれば、非常にすばらしいことだと思う。
|
|
|
|
|
|
2007/03/05
世界ふれあい街歩き 2月26日 台北〜台湾〜から転載
「街」の出会い
![]() |
||
![]() |
![]() |
|
|
![]() |
||||
|
||||
|
||||
|
||||
|
データ
台北 〜台湾〜 | ![]() |
![]() |
![]() |
|
歩き方
世界ふれあい街歩き
09:14
08:36
09:14
09:37
07:21